歴史は人生の教師だ。

これはよく聞かれる質問の一つです。どうして歴史を学ぶ必要があるのか?歴史から何を得られるというのか?と。そう考えると、実用的なものは何も得られないかもしれませんが、そうした姿勢では、効率よく食べる方法や仕事する方法など、人生においてそのようなつまらないことしか学ぶことが出来ないでしょう。
「Historia magistra vitae est(歴史は人生の教師だ)」という有名な文は、私たちの生活において、歴史が活用されていることを意味しています。また、この文を引用されたオリジナル文を知らない人は多いです。この文を述べたキケロは、同じ文において「Historiaest testis temporum, lux veritatis(歴史は時代の証人であり、真実の光である)」とも述べたのです。私たちの過去に起きたことは、歴史上でも起きていて、本当の歴史だけが真実だということです。
歴史を学ぶと、地理学、社会学、経済学など、他の多くの学問にも触れることになります。こうして多岐にわたる分野に触れることでしか、歴史を正しく理解することは出来ません。歴史を学ぶことで、多くの固定観念や迷信などから開放されます。
また、歴史のように、人生は、白黒付けられるものではないということも、わかります。歴史上の人物を神のように偶像化する人は多く、まるで欠点がなかったかのように捉える傾向があります。
つまり、人それぞれの世界の見方によって、歴史も変わるのです。これこそが、私が歴史を好きな理由です。特に20世紀には、多くのイデオロギーが誕生しました。イデオロギーには、正しいことも間違ったこともありません。すべては、人それぞれの価値観によるのです。
ある人にとっては英雄である人物も、他の人にとっては悪人になり得るということです。たとえば、元ソ連の首相レーニンです。
社会主義国家のモデルを作り、共産主義の英雄となり、彼の彫像は今日いたるところにありますが、世界の反対側の西洋諸国では、レーニンは法政を打倒し、違法国家を作ろうとしている革命家だと見なされていました。
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日常生活における「歴史」の役割とは?
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日常生活において「歴史」の役割が何か?というのは、非常に重要なテーマですが、「歴史」が日常生活に大きな影響があると認識している人はあまりいません。人々は、毎日同じ過ちを犯し、決して歴史から学ぶことはないのです。
これまでに「歴史」の目的は何度も変化してきました。古代ギリシャでは、歴史は、先祖の栄光と彼らの物語を伝えるために使用されました。ヘロドトスとトゥキディデスは、戦争や世界の不思議な事柄について書き、客観的に物事を見ようとしましたが、あくまでもその時代の歴史の主役は、神々でした。
また、古代ローマでは、歴史は日常生活の凡例として使われていました。歴史を知ることで、同じ間違いを何度も繰り返さないようにしようとしていたのです。歴史は、中世の暗黒時代に多くの改変がなされましたが、ルネサンス期には、ひとつの「科学」となり始めていました。そして19世紀には、歴史はついに、現代科学が持つすべての要素を備えた、真の科学となったのです。
つまり、歴史は、物語を語るだけのものではなく、過去の証拠に基づいて結論を出す「科学」なのです。証拠には、手紙や本など、多くのものが使用されますが、歴史について重要な事実は、推測をしないということです。歴史は遊びではないので、結論を導き有益な情報となるには、一連の実証を経て、疑問を解消する必要があります。
多くの独裁者は、彼らの目的のために、歴史を悪用しました。たとえば、アドルフ・ヒトラーは、ドイツ人の祖先はアリウス派であり、他の人種はドイツ人ほど優れていないことを世界に発信していました。
また、ムッソリーニは、ローマ帝国が持っていたすべての領土を望んでいたため、現代のイタリアと古代ローマを結びつけようとしました。
このように、歴史を改変して利用しようとした例は、過去にたくさんあります。しかし最終的には、どういうわけか真実が常に勝り、正しい道が開かれるのです。
歴史は、私たちが受け入れようとさえすれば、多くのことを教えてくれます。その一つは、世界は白黒つけられない、ということです。映画のように、完全なる悪者も善人もいませんし、目標や趣味嗜好が違う人ばかりです。戦争は通常、そのせいで起きますね。
俳優から政治家、スポーツ選手まで、歴史上のすべての人に何かしらの汚点があるものです。誰のことを学んでも、偉業を成し遂げた歴史上の人物のことを学んでも、私たち一般人と同じように、大きな欠点のある人々であったことがわかります。
ジョン・フィッツジェラルド・ケネディはセックス依存症で、チャーチルはアルコール依存症で、スターリンは社会病質者と、例を挙げるとキリがありません。
歴史を学ぶ際に重要なことは、自国の文化を愛することです。一方、外国の文化についても学ぶと、多くの固定観念が取り除かれ、人種、宗教、その他の差別的要因となり得るものに関係なく、すべての文化を尊重できるようになりますよ。
最後に、結論を述べます。歴史とは、教育における非常に大きな側面の一つです。歴史は、多面性、寛容性、尊敬の念など、他の科学からは学ぶことができない、多くのコトを教えてくれるのです。
日本のギャンブルの歴史
人間の存在のあらゆる側面には歴史があり、それはギャンブルにも言えることです。今の日本では、ギャンブルは禁止されていますが、それは急速に変化する可能性があります。ギャンブルが日本で一般的になり、人々が刑罰を恐れずに、好きなギャンブルゲームをプレイするようになるのは、時間の問題でしょう。
そこでこの記事では、日本におけるギャンブルの歴史について解説します。ギャンブルがどのように発展し、私たちの先祖がどのようなギャンブルをしていたか、についてチェックしていきましょう。
歴史上、日本にギャンブルが最初に登場したのは、7世紀の終わりでした。『日本書紀』には、天武天皇がサイコロゲームをするのが好きだったと、記載されています。そのゲームは少し異なるものではありましたが、バックギャモンのようなものでした。しかし、天武天皇が崩御された後、ギャンブルは禁止されたのです。
その後の平安時代には、ギャンブルは一般的になっていました。人々は、喧嘩から競馬まで、ほとんどすべてのことで賭け事をしていました。当時の首都は、平安京(現在の京都)でしたが、平安京はギャンブラーだらけだったのです。興味深いことにも、この時代、プロのギャンブラーに「博徒」という特定の呼称まであったのです。
それと同時に、この時代には、人々を震撼させた組織的殺人事件や強盗などが勃発し始めていたこともわかっています。このため、13世紀の終わりには、天皇はギャンブルを禁止する9つの法律を施行しました。
やがて時代は、江戸時代へと移ります。1867年まで続いた江戸時代には、武士が存在しました。武士は、1615年から続いていたある1つの法律により、表向きにはギャンブルをしていなかったので、ギャンブルは不道徳な活動として位置づけられていたのです。しかし、多くの武士はその法律を気にせず、何年もの間、サイコロゲームをし続けました。
その反面、一般庶民はギャンブルを恐れていました。というのも、18世紀当時の法律では、あらゆる形態のギャンブルが禁止されており、刑罰は残酷なものであったからです。ギャンブルに巻き込まれた者は、死罪にされる可能性までありました。
時が経つにつれ、法律上、軽い賭け事と重い賭け事に分けられるようになり、後者は引き続き禁止されましたが、いくつかのサイコロゲームは認められるように。特に19世紀は、変化に富んでいた時代で、世界の多くのことが変わりました。それらの変化に応じて、日本は開国しなければならないようになったのですが、それにはギャンブルを受け入れることも含まれていました。
その後、ギャンブルは非常に人気を博し、政府は再び違法にする必要に迫られ、1907年、再びギャンブルは禁止されました。これは西洋文化とそこから生まれたゲームに反対する動きでした。
しかし、ある一つのゲームだけは、政府が設けたすべての禁止事項と法律を掻い潜りました。それは1920年代には「パチパチ」と呼ばれていたものです。これは、すぐに日本で最も人気のあるギャンブルになり、1930年代には「パチンコ」と呼ばれるようになりました。
パチンコは、誰もがプレイするような、全国で最も人気のあるギャンブルゲームとなり、名古屋にパチンコセンターがオープンした後、非常に高い人気を博すようになりました。
そして現在、日本は、西洋諸国に続いて、ギャンブルやカジノの合法化へ、一歩踏み出そうとしています。正式に合法化されると、私たちの美しい国に世界中から多くの観光客が訪れて楽しむようになり、世界が日本に抱いている(ギャンブルを禁止している国家という)悪いイメージが払拭されることになるでしょう。今後の動きに要注目ですね!